- 2014-02-24 Mon 22:33:06
- 石北本線

石北本線 生田原-金華 撮影 2014年1月
たぶん。最後の146kpになる。
雪の季節にDD51を狙う撮影。
もう、次は無いだろう。
そんな感慨に浸っていました。
踏切まではなんとか車で入れたので、最後の一息だけ早歩き。
それでも息が上がるのは、やはり峠なんでしょうね。
凍った大気を震わせ登ってくるタマネギ列車。
いや、これは送り込み回送ですから、空っぽな筈なんですが(笑)
……もう今さら。
そんな気になって居たのは事実でした。
だけど、今回は行かなきゃ成らない理由があったんです。
じつは、ひょんな事から石北線建設の血塗られた裏話を聞いてしまいました。
生田原出身の方が自分の生活する地元にいらっしゃいまして(汗)
その方のお父様は明治の終わりの生まれだそうですが……
生田原にあった金山の労働者だったそうです。
で(汗)
―――石北線が建設されている頃の話。
生田原へと流れる小川の水は、まだ上水道が無かった時代には生活水だったそうです。
その方のお父さんのお父さん。つまりおじいさんの話だそうですが。
ある日、その水が鼻も曲がるような腐臭・死臭を放ち、小川の魚が次々と浮き上がって死んだんだそうです。
あれこれと理由を調べているウチに、上流で建設中だった石北線の建設現場に行き当たったんだそうです。
で、文句を言いに道無き道を上がっていったら……
いま、生田原から常紋の信号所へ向かう旧湧別北見線は、その時代はトロッコ軌道が敷いてあったそうなんですが。
そのトロッコ軌道が建設中の本線と横切る所。いまで言う145kp辺りの踏切です。
あの辺りの淵がタコの死体で水面が見えないくらいだったそうです。
軌道建設現場で死んだタコを使えなくなったトロに放り込んで淵へと捨てたんだそうですよ。
あの踏切まであまりアップダウンも無く軌道により沿うようにやって来る道ですが、踏切を越えると急に軌道と距離を取るようになります。
じつは、人力でトロを押すモンですから、軌道がなるべくフラットでないとダメだったんだそうです。
朝5時から夜9時まで僅かな休憩時間のみで働き続けたタコは、力尽きて気絶すると自分の押してたトロに踏みつぶされて死んだそうです。
あの道はトロッコ軌道に沿って真っ赤に染まっていて、それはタコが漏らした血尿と手足から流れ出た血そのものだったとか。
死んだタコは道ばたに放置され、夕方になると淵へ投げ込んで『ハイお終い』だったとか。
あの沿線で立ち小便する時は気をつけましょうね。
もしかして、そこに死んだタコが放置荒れた場所かも知れませんから(汗)
話を聞いた方が言われるに、おじいさんは生田原の街から飯場まで食料を届ける仕事をしていたそうですが……
沿線で見た半死半生のタコは涙を流しながら両手を合わせて『助けて』と懇願したそうです。
でも、現場で働かせてた人にしてみれば、金を払ってタコを『買ってきた』訳ですから、逃がす訳には行きません。
筆舌に尽くしがたい『何か』があったんでしょうね。その方も遠い目をして、全部は語ってくれなかったと言っていました。
朝鮮人強制労働者とか言いますが、実体は朝鮮半島内だけで無く日本全国に居た人身売買を生業とする手配師の所行だったそうです。
色んな理由で地元に居られなくなった者が『三食寝床付きで出自身辺調査無いよ!』と甘い言葉に騙され連れてこられる場所。
地元遊郭で三日三晩豪勇して、その支払いを偉く吹っかけられて、払いきれなくて送り込まれる場所。
人を殺したとか詐欺をやったとか、兇状持ちで身を隠す場所が必要だった者がたどり着く場所。
理由は様々なだったそうです。
ただ、中央開鑿道路のように国設で刑務所収監者が作ったモノとは違う、営利で行われた事業だった場所。
そこに染みついた恨みと憎しみって如何ばかりでしょうか……
自分には関係ないと思ってもね。
でも、そう言う問題じゃ無いだろうと。
そう思って手を合わせてきました。
最後の146kpだろう
そう思って、最後の一枚。
もう来ないかも知れない。
だから、心からの感謝を込めて。

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